人気サイト様 最新記事

博士ちゃんねる ヘッドライン

レスの強調ウゼェー!というドクターへ

レス内の強調表示をOFFにする コチラをクリックして切り替えてください。設定は30日間Cookieに保存されます。
現在のステータス:強調有効

判官びいきされている外国の歴史上の人物 @ [世界史板]


判官びいきされている外国の歴史上の人物 @ [世界史板]
1: 世界@名無史さん 2013/03/14 23:17:36
判官びいきは日本人特有の傾向とか言われるが
そんなことはないと思う。
源義経みたいな形の人気者は世界各地にいるはず。

まず思い浮かぶのはカルタゴの名将ハンニバル。

なお、世界史板なので日本の人物は除外でお願いします。
ハンニバル (Wikipedia) ハンニバル ハンニバル・バルカ(Hannibal Barca, 紀元前247年 - 紀元前183年/紀元前182年)は、カルタゴの将軍。ハミルカル・バルカの長子。ハンニバルは「バアルの恵み」や「慈悲深きバアル」、「バアルは我が主」を意味すると考えられ、バルカとは「雷光」という意味である。
第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、カルタゴが滅びた後もローマ史上最大の敵として後世まで語り伝えられていた。2000年以上経た現在でも彼の戦術は研究対象として各国の軍隊組織から参考にされるなど戦術家としての評価は非常に高い。
3: 世界@名無史さん 2013/03/14 23:30:26
まあハンニバルのあの負け方は
ローマの敗北から学習できなかった負け方
だよね
俺なら同じやり方でも上手くできると思ったのかな
4: 世界@名無史さん 2013/03/14 23:45:43
ハンニバルの知名度に比べるとスキピオの知名度が低い
日本人だとほとんどの人が知らないだろう
圧倒的な戦術でローマを苦しめたハンニバルに対し
果敢にも立ち上がってくれたスキピオにこそ判官贔屓してしまうよ
あとは大カトーによるスキピオ裁判でのスキピオが不憫
スキピオ・アフリカヌス (Wikipedia) スキピオ・アフリカヌス プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル(羅: Publius Cornelius Scipio Africanus Major, 紀元前236年 - 紀元前183年頃)は、共和政ローマ期の軍人、政治家。元老院議員。スキピオ・アフリカヌスと称され、妻の甥で義理の孫に当たるスキピオ・アエミリアヌスと区別して大スキピオとも呼ばれる。第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破り戦争を終結させた。グラックス兄弟の外祖父にあたる。
管理人より:快楽主義者で型破りなスキピオと、禁欲主義者で愛国心が強く、規律を重んじる大カトーは、とことんソリが合わなかったんだそうです。
9: 世界@名無史さん 2013/03/15 08:11:19
>>4
スキピオは最終的に勝者なんだから判官びいきされようがないだろ。
15: 世界@名無史さん 2013/03/15 22:06:43
ハンニバルのどこが判官びいきなんだよ
義経みたいな負け犬への同情(生まれついての身分がまるで違うのに同情もクソもないが)が判官びいきじゃないの?

ハンニバルは普通に英雄だし。最後に負けただけで判官びいきの対象になるならいくらでも候補は出るわな。それでいいの?
つーか日本特有っていうなら世界の例以前に日本の判官びいきの例を義経以外にあげてほしいわ
22: 世界@名無史さん 2013/03/15 22:40:07
>>15義経みたいな負け犬への同情

ただの負け犬じゃ判官贔屓してもらえないよ。
朝倉義景とか斉藤龍興とかされてるか?義経よりずっと負け犬という名にふさわしいのに。
16: 世界@名無史さん 2013/03/15 22:26:59
>日本の判官びいきの例を義経以外にあげてほしいわ

楠木正成、真田信繁(幸村)、山中鹿之助、赤穂浪士、白虎隊、新撰組(特に土方)、西郷隆盛
27: 世界@名無史さん 2013/03/15 23:04:53
・大変有能である
・本来の職能とは別の原因で疎まれる
・夭折してる
イケメン(ということになっている
12: 世界@名無史さん 2013/03/15 19:34:51
諸葛亮だろ。
史実はともかく一般的なイメージでは
無能な君主に足を引っ張られながら先帝の遺志を守るために
圧倒的に国力で上回る魏に挑み続け志半ばにして果てた。
諸葛亮 (Wikipedia) 諸葛亮 諸葛 亮(しょかつ りょう)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。
(中略)『三国志』の撰者の陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている。
しかし、その一方で「毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功しなかったのは、応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからだろうか」とも書いており、政治家として有能であったと評しつつ、軍人としての評価については慨嘆するに留まり、やや言葉を濁した形になっている。
13: 世界@名無史さん 2013/03/15 20:46:19
グスタフ2世アドルフ
戦績はあんまりパッとしないよね
すぐ死んじゃったし
グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王) (Wikipedia) グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王) グスタフ2世アドルフ(Gustav II Adolf, 1594年12月9日(グレゴリオ暦12月19日) - 1632年11月6日(グレゴリオ暦11月16日))は、ヴァーサ朝第6代、スウェーデン王国最盛期の国王(在位:1611年 - 1632年)。通称「北方の獅子」。グスタフ・アドルフとも呼ばれる。三十年戦争における主要人物の一人。
(中略)両軍は1632年11月、リュッツェンで激突した(リュッツェンの戦い)。戦闘は当初スウェーデン軍が優勢であったが、強度の近視だったグスタフ2世は、霧の中で味方の軍からはぐれて敵中に飛び出してしまい、戦死した。38歳であった。傭兵隊長ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマルが指揮を引き継いだおかげで戦闘には勝利したスウェーデン軍だが、グスタフ2世を失ったため、その後はいくつかの軍団に分かれて転戦し各地で略奪を働き(この点は皇帝軍も同様だったが)、ドイツ諸国は荒廃の極みに達した。しかしグスタフ2世の築いたスウェーデン軍は、宰相アクセル・オクセンシェルナの指導の下、グスタフ・ホルン、レンナート・トルステンソン、ヨハン・バネール、カール・グスタフ・ウランゲルら優れた将軍を輩出し、三十年戦争を乗り切って行くのである[4]。
管理人より:三十年戦争ネタで、「判官びいき」ならグスタフ2世より、主君にいろいろ恵まれなかったヴァレンシュタインの方がピッタリだと思う。
26: 世界@名無史さん 2013/03/15 23:01:34
なんぼでもいそうな気がしたが、あんがい思い浮かばんもんだな
かろうじて、スパルタクスがでてきた
76: 世界@名無史さん 2013/03/21 18:38:13
スパルタクスって大義名分とか無しに暴れまわっただけだから
判官贔屓する気がおきない

反乱後周囲の都市の人たちも大迷惑だったんじゃないかな
映画とかだと持ち上げられているけどさ
84: 世界@名無史さん 2013/03/22 06:43:18
スパルタクスはカーク・ダグラス主演の映画以前には知る人はほとんどいなかった。
せいぜい、そういえば世界史教科書に一行書いてあったなー程度。
スパルタクス (Wikipedia) スパルタクス スパルタクス(ラテン語: Spartacus、生年不詳[1] - 紀元前71年)は、共和政ローマ期の剣闘士で、「スパルタクスの反乱」と称される第三次奴隷戦争の指導者。
紀元前73年に仲間の剣闘士とともに南イタリアのカプアの剣闘士養成所を脱走してヴェスヴィウス山に立て籠もり、討伐隊を撃退した。近隣の奴隷たちが反乱に加わって数万から十数万人の軍衆に膨れ上がり、紀元前72年には執政官の率いるローマ軍団を数度にわたって打ち破ってイタリア半島を席巻した。紀元前71年になるとクラッススの率いる軍団によってイタリア半島南端部に封じ込められ、クラッススとの決戦に敗れた奴隷反乱軍は全滅し、スパルタクスも戦死した。近現代になると再評価され、カール・マルクスは「古代プロレタリアートの真の代表者」と評した[2]。
39: 世界@名無史さん 2013/03/16 08:43:11
判官贔屓とまではいえないかも知れないが
ヒトラーやナチスの最後を滅びの美学的に描いた映画は結構あるね。
『ヒトラー最後の日』とか。
40: 世界@名無史さん 2013/03/16 09:18:27
南極探検隊のスコット

万全の準備をしプロフェッショナルに徹したアムンゼンに比べると南極をなめていたから失敗したのだが
アムンゼンに南極点一番乗りを奪われた後の行程に悲劇がありすぎた
ロバート・スコット (Wikipedia) ロバート・スコット ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott, 1868年6月6日 - 1912年3月29日)は イギリス海軍の軍人。南極探検家としても知られ、1912年に南極点到達を果たすが、帰途遭難し、死亡した。 (中略)何よりも、スコットとアムンセンは南極探検の動機が全く異なっていた。アムンセンは子供の頃から純粋に極地探検を人生の目標としており、南極探検はあくまでもアムンセンの個人的な動機によるもので、探検の途中で重大な危機に遭遇した場合にはアムンセン自身の判断で引き返せる余地もあった。これに対し、スコットは大英帝国の威信をかけた国家事業の代表者として選ばれ、国家の期待を一身に背負って南極探検に臨んでいた。そのため、スコット隊が初期の段階で雪上車の故障や馬の全滅といった想定外の危機に見舞われても、スコットは国家の期待に背いて引き返すことを潔しとせず、職業軍人としてのプライドもあって、そのまま死へと向かって前進を続ける以外に選択肢を見出すことができなかったとも言える。
管理人より:当時イギリスでは2位に甘んじたスコットを称える声が大きく、「セカンド・ベスト」という言葉が生まれたとかなんとか。どんな手段を使っても1位になるより、正々堂々と挑んで2位になる方が良い…みたいな。イギリス人らしいですね。
57: 世界@名無史さん 2013/03/17 20:40:05
ダルタニャン
それこそ戦国武将のような経歴の人だよな

無論アレキサンドル・デュマの『ダルタニャン物語』で知られている

ハドリアヌス帝
漫画で人気を博している

ついでレオナルド・ダ・ビンチ?
なんでって、つい男色つながりで思いだした…
ダルタニャン (Wikipedia) ダルタニャン ダルタニャン(仏: D'Artagnan、1615年? - 1673年6月25日)は、ブルボン朝時代に活躍したフランスの軍人。 (中略)本名はシャルル・ド・バツ=カステルモール(Charles de Batz-Castelmore)であるが、通称のダルタニャンの方が有名である。軍人としての活躍は歴史に名前を残すほどではないが、アレクサンドル・デュマ・ペールが『三銃士』を始めとする『ダルタニャン物語』で描いた創作上の人物としての知名度が高い。
本名はシャルル・ド・バツ=カステルモールであるが、本人はシャルル・ダルタニャンを、また爵位を持っていなかったがダルタニャン伯爵を名乗っていた。というのも、近衛歩兵連隊のカラーガードだった母方の祖父、ジャン・ダルタニャンの存在があったので「ダルタニャン」の方が通りが良かったため。なお、「ダルタニャン (D'Artagnan)」は「ドゥ・アルタニャン (de Artagnan)」がエリジオンの形態を取ったもの。

(中略)ダルタニャンをモデルにした創作で最も早いと思われるものは、かつてダルタニャンの下で銃士をしていた文人クールティル・ドゥ・サンドラスの執筆した偽回想録『ダルタニャン氏の覚え書き』で、初版が1700年に出版されている。これを種本として創作されたのが、アレクサンドル・デュマ・ペールの『ダルタニャン物語』である。
管理人より:デュマは「ダルタニャン物語」というタイトルでは書いていません。ダルタニャンを主人公とした「三銃士」「二十年後」「ブラジュロンヌ子爵」の3部作を、鈴木力衛がまとめて完訳したものを「ダルタニャン物語」として出版しています。

クールティル・ドゥ・サンドラスは、フルネームが「ガシヤン・クールティル・ド・サンドラス」、ついでに、アトスのモデルは「アルマン・ド・シエーグ」、アラミスは「アンリ・ド・アラミツ」、ポルトスは「イザーク・ド・ポルト」それぞれモデルがいるんだそうです。
以上の話はアルトゥーロ・ペレス・レベルテの「呪いのデュマ倶楽部」という本に書いてあり、「ナインス・ゲート」というタイトルで映画化もされてますが、三銃士のくだりはバッサリカットされてます。
呪のデュマ倶楽部
呪のデュマ倶楽部
posted with amazlet at 14.01.02
アルトゥーロ・ペレス・レべルテ
集英社
売り上げランキング: 339,552
ハドリアヌス (Wikipedia) ハドリアヌス プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス(古典ラテン語: Publius Aelius Trajanus Hadrianus (プーブリウス・アエリウス・トライヤーヌス・ハドリアーヌス)、76年1月24日 - 138年7月10日)は、第14代ローマ皇帝(在位:117年 - 138年)。ネルウァ=アントニヌス朝の第3代目皇帝。帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による帝国拡大路線を放棄し、現実的判断に基づく国境安定化路線へと転換した。
68: 世界@名無史さん 2013/03/21 01:07:28
判官贔屓という言葉には、ただ可哀想という同情しか含まれていないのか?
その対象が正義だったからとか、そういう要素は無いのだろうか?
69: 世界@名無史さん 2013/03/21 03:21:47
「正義」なのに負けてしまって(その上勝者の側から悪者認定されて)かわいそう;;ってことでしょ。
「彼は『正義』だが力が足らなかったから負けただけ」とか同時代から後世まで擁護されるぐらいの人徳というか人気があるのが判官びいき

ハンニバルとかナポレオンとかヒトラーとか色々挙がってるけどそういう面で違和感全開
ハンニバルとナポレオンのような例は「正義」かどうかではなく最終的に負けて終わったという点だけで挙げられてるように思えるし、
ヒトラーが「正義」の故に負けたとか本気で思ってるなら普通に引くわ
99: 世界@名無史さん 2013/03/22 20:20:12
>>69
ハンニバルはナポレオンやヒトラーと違って国のトップじゃなく
国のすべてを自分で動かせたわけじゃないから、
本国に足を引っ張られたせいで100%の力を発揮できず負けた悲劇・・・
的な見方もされるから。
孔明や楠木正成同様。
122: 世界@名無史さん 2013/04/11 02:12:45
スッラと若きカエサルならカエサルを判官贔屓できる、あくまで俺はだけど
処刑者名簿に名が乗ってローマから東へ逃亡することに
勘違いする人多いけどカエサルは反体制派
主流で多数の共和派(門閥派ともいう)に対し圧倒的劣勢勢力民衆派(旧マリウス派ともいう)に所属するただ一人の男
この時点では十分判官贔屓されてもいい条件は揃ってる
最終的に歴史上の勝者になってるから判官贔屓されないだけで
ガイウス・ユリウス・カエサル (Wikipedia) ガイウス・ユリウス・カエサル ガイウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Julius Caesar、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日[1])は、共和政ローマ期の政治家、軍人であり、文筆家。「賽は投げられた」(Alea jacta est)、「来た、見た、勝った」(Veni, vidi, vici) などの引用句でも知られる。
マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治と内戦を経て、ルキウス・コルネリウス・スッラに次ぐ終身独裁官(ディクタトル)となり、後の帝政の基礎を築いた。
ルキウス・コルネリウス・スッラ (Wikipedia) ルキウス・コルネリウス・スッラ ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(ラテン語: Lucius Cornelius Sulla Felix, 紀元前138年 - 紀元前78年)は、共和政ローマ期の軍人・政治家。
(中略)貴族階層の出身者として閥族派(オプティマテス)の指導者となり、かつて自らも仕えた民衆派(ポプラレス)の指導者ガイウス・マリウスと激しい内戦を繰り広げた。マリウスの病死によって民衆派が動揺するとこれを突いてキンナ、小マリウスら主な政敵を葬って民衆派を粛清、更に独裁官としてスッラ体制とも言うべき強固な閥族派の政権を作り上げた。
スッラによって築き上げられた体制はローマの共和制に最後の安定をもたらしたが、マリウスの義理の甥であるガイウス・ユリウス・カエサルによって閥族派は倒され、更にその大甥に当たるアウグストゥスによって共和制ローマは終焉を迎えた。
124: 世界@名無史さん 2013/04/12 03:46:49
>>122 クレオパトラとセットでなら判官びいきの対象かも。この場合の憎まれ役はアウグストゥス
アウグストゥス (Wikipedia) アウグストゥス アウグストゥス(羅: Imperator Caesar Divi Filius Augustus インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス、Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス、紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した。ちなみにアウグストゥスは、ラテン語で「尊厳ある者」を意味しており、現在のギリシア語では「8月」の意になっている。
131: 世界@名無史さん 2013/09/09 14:31:18
クレオパトラとセットの判官贔屓ならばアントニウスでないの?
マルクス・アントニウス (Wikipedia) マルクス・アントニウス マルクス・アントニウス(ラテン語: Marcus Antonius、紀元前83年1月14日? - 紀元前30年8月1日)は共和政ローマの政治家・軍人。第二回三頭政治の一頭として権力を握ったが、その後はガイウス・ユリウス・カエサルの姪の息子オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)に敗北した。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』でも知られている。
132: 世界@名無史さん 2013/09/09 16:43:33
最後が格好悪いからでは?
あれで華々しくしんでたら愛を捧げた戦士扱いかも
135: 世界@名無史さん 2013/09/12 18:48:07
>あれで華々しくしんでたら

せめてアクティウムで逃げないで戦死していたらかなり面目たったろうに。
136: 世界@名無史さん 2013/09/14 10:58:02
メアリー・ステュアート。
政治感覚はゼロどころかマイナスレベル入ってるのになぜか同情票が多い。

今残ってる肖像画見てもなんだか鼻が大きくて、確かにきれいめっちゃそうだけど評判ほどの
美女には見えないんだが、なぜか絶世の美女みたいに言われてる。
138: 世界@名無史さん 2013/09/14 23:14:09
>>136 韓国での閔妃みたいなもんか

ラスタファリアンにおけるハイレ・セラシエ一世の扱いはちょっと違うのかな
強大な白人勢力に対峙して独立を守った皇帝として神の域にまで崇められてるけど
メアリー (スコットランド女王) (Wikipedia) メアリー (スコットランド女王) メアリー・ステュアート(Mary Stuart, 1542年12月8日 - 1587年2月8日(グレゴリオ暦2月18日))は、スコットランド女王(メアリー1世、在位:1542年12月14日 - 1567年7月24日)。
(中略)1570年にはリドルフィ事件(ロベルト・ディ・リドルフィがたくらんだ事件)、1586年のバビントン事件(カトリックのアンソニー・バビントンがエリザベスの暗殺を狙った事件)などである。バビントン事件の裁判ではメアリーが関与した証拠が提示され、有罪・死刑を言い渡された。エリザベス1世は死刑執行書への署名を渋る様子を見せたが、結局1587年2月8日、フォザリンゲイ城のホールでメアリーは処刑された。
管理人より:いわゆるカクテルの「ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)」はこのひとが元ネタ。トマトジュースとウォッカの真っ赤なカクテル!
10.13追記:元ネタはイングランド女王の方のメアリーだよ!とコメ欄でご指摘を受けました。ソウデシタヨ…orz
129: 世界@名無史さん 2013/08/02 04:37:39
マリア・テレジア。
気持ちはすっごく良く分かるが、7年戦争は引き際を見誤ってる。
マリア・テレジア (Wikipedia) マリア・テレジア マリア・テレジアことマリア・テレジア・ワルブルガ・アマリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ[1](独: Maria Theresia Walburga Amalia Christina von Österreich , 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は、神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1743年 - 1780年)で、ハプスブルク君主国の領袖である。
(中略)だが、その見通しの甘さはカール6世の死後すぐに露呈する。すなわち、彼が死ぬと周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできた。これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)である。
(中略)だがプロイセンには軍隊の質などから敗北を喫し、1745年のドレスデンの和においてシュレージエンのプロイセン領有を承認。英仏間で戦争は続行され、最終的に1748年のアーヘンの和約(エクス・ラ・シャペル条約)によって終結した。
管理人より:このシュレージェンを奪われた、オーストリア継承戦争と7年戦争のときの、「三枚のペチコート作戦」という、対プロイセン(のフリードリヒ大王への嫌がらせ)外交戦略というのがおもしろいんですよね。
161: 世界@名無史さん 2013/09/26 04:03:55
判官贔屓ちはちょっと違うけど、リチャード一世は騎士個人として勇猛なだけ。
政治的に成功しなかったジョン王のほうがまだ王としての能力は脳筋の兄より
上に思える。
リチャード1世 (イングランド王) (Wikipedia) リチャード1世 (イングランド王) リチャード1世(Richard I, 1157年9月8日 - 1199年4月6日)は、プランタジネット朝第2代のイングランド王(在位:1189年 - 1199年)。ヘンリー2世の三男(第4子)。母はアリエノール・ダキテーヌ。妃はベレンガリア・オブ・ナヴァール(ナバラ王サンチョ6世の娘)。
生涯の大部分を戦闘の中で過ごし、その勇猛さから獅子心王(Richard the Lionheart、フランス語ではCœur de Lion)と称され、中世ヨーロッパにおいて騎士の模範とたたえられたが、10年の在位中イングランドに滞在することわずか6か月で、その統治期間のほとんどは戦争と冒険に明け暮れた[1]。
ジョン (イングランド王) (Wikipedia) ジョン (イングランド王) ジョン(John, 1167年12月24日 - 1216年10月18日または10月19日)はプランタジネット朝第3代イングランド王(在位:1199年 - 1216年)。イングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの末子。ヘンリー2世が幼年のジョンに領土を与えなかったことから、欠地王と呼ばれる。また、領地を大幅に失ったため失地王とも呼ばれることがある。
管理人より:このひと以降、イギリスには「ジョン」という名前の王様はたしかいないはず。
166: 世界@名無史さん 2013/09/28 11:42:00
>>161
戦略もすごいがな。
寡兵で何度も大群を破ってるぞ。
162: 世界@名無史さん 2013/09/26 09:00:04
リチャードは勇敢なだけというのは正しいが
ジョンは勇敢さもないというべき
マキャベリも君主は軽蔑だけは避けなければいけないといってるのに
163: 世界@名無史さん 2013/09/26 13:53:32
ライオンハート、戦術眼はあったよ
政略センスは皆無だけどな
164: 世界@名無史さん 2013/09/28 04:56:48
俺もジョンの方がまだ政治的野心はあったと思う。失敗ばかりだけど。
165: 世界@名無史さん 2013/09/28 07:20:49
才能と野心ちがうやん

相変わらず註釈大量で疲労困憊。
世界史ネタはどうせ「歴史的速報@2ch」さんとか「歴史的大敗」さんとかとネタがかぶるし、こゆのはもういいか…と思い始めてる管理人ではあります。
「博士ちゃんねる」的にはニッチ路線を狙いたいので、どんなネタが適当なのかなぁ。

トップ絵はダルタニャンつながりで、98年の映画「仮面の男(The Man in the Iron Mask)」。右から、
  • ルイ14世役のレオナルド・ディカプリオ(バカっぽくてよかった)
  • アラミス役のジェレミー・アイアンズ(好きな俳優だけどアラミスやるには色気が足りない
  • アトス役のジョン・マルコヴィッチ(好きな俳優だけどハゲのアトスはダメ
  • ダルタニャン役のガブリエル・バーン(現時点で管理人的にはベスト・オブ・ダルタニャン
  • ポルトス役のジェラール・ドパルデュー(もうちょっとデカくて力持ちが良かった
です。ガブリエル・バーンの演技が全てを救った映画といっても過言ではない。内容は…………お察し。
仮面の男 [DVD]
仮面の男 [DVD]
posted with amazlet at 14.01.02
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン (2012-09-28)
売り上げランキング: 43,108


元スレ:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1363270656/

人気サイト様 最新記事

博士ちゃんねる ヘッドライン

    • ※1 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2014.1.3 20:41
    判官びいきの元ネタの人、
    • ※2 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2014.1.5 21:46
    イエス

    生前と死後の評価の格差という点で、空前にして絶後
    • ※3 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2014.10.13 14:04
    ブラッディ・マリーの元ネタはイングランド女王メアリーでエリザベス女王の姉。スコットランド女王
    メアリーじゃないです。
  1. トラックバックはまだありません。


コメ欄での議論はおおいにけっこうですが、当サイトではドクター同士の罵り合いは禁止となっております。反論する際には、相手の意見・人格を尊重し、どうぞ冷静に。
*