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応仁の乱とは一体何だったのか @ [日本史板]


応仁の乱とは一体何だったのか @ [日本史板]
1: 日本@名無史さん 2017/05/17(水) 12:48:32.50 ID:.net
何だか深い闇を感じるのだが
2: 日本@名無史さん 2017/05/18(木) 00:47:23.49 ID:.net
誰か答えてくれ‼
5: 日本@名無史さん 2017/07/29(土) 19:14:35.13.net
>>1,>>2
深い闇を感じる私感は構わぬが、スレ立てするからには議論足掛かりの先学スレくらい付記しろよ。

過去スレ
応仁の乱について語る ★乱の2
【^▽^】応仁の乱について語る【^▽^】

親スレ
室町幕府の影の薄さは異常
なぜ鎌倉時代室町時代は地味で人気がないのか2代目
管理人より:「応仁の乱」は1467年から10年以上に渡って繰り広げられた関東~西日本全域を巻き込んだ大乱。斯波、畠山氏の家督争いに端を発し、細川vs山名の勢力争い、果ては足利将軍家の後継争いも加わり、きたる戦国時代の端緒となった説も。
一番下のスレは以前まとめました。
3: 日本@名無史さん 2017/05/18(木) 17:13:41.70 ID:.net
簡単に言えば全国規模の権力争いでは

将軍家内の将軍後継争いがあって、幕府内での権力争いがあって、武家単位でも惣領争いがあって…
一方が東軍についたらそのライバルは西軍にってね
御輿に対する敬意や忠誠心も特にないから、状況次第で担ぐ御輿を換えもする

もともと支配体制は弱い幕府だったからね
義満や義教くらいじゃないと簡単にタガが外れる
4: 日本@名無史さん 2017/07/06(木) 16:04:44.74 ID:.net
この御輿が二つあるっていうのが拙いんだな
Aの御輿を担げば、対立するBの御輿を担いでる者を攻める大義名分が立つ
そもそも初代将軍の尊氏の時からして、南朝北朝で戦の泥沼の中から始まってる

つまり何の教訓も得ていなかったと…
7: 日本@名無史さん 2017/09/21(木) 01:09:02.23 ID:.net
応仁の乱をラジオで語ってますよ
聞いてますか。


NHKラジオ(AM第1第2 FM)合同スレッド3353
8: 日本@名無史さん 2017/09/24(日) 03:55:23.90 ID:.net
応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)>>7
9/21に語っていたのは、『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書 2016年)の著者で日本史学者呉座勇一氏ですね。
同氏が「応仁の乱」を講釈した7/27放送の以下番組が、9/17日曜昼に再々放送されていましたが、近年大河ドラマでも取上げない室町時代が何か注目されているのでしょうか?


『英雄たちの選択』スペシャル 「まさかの応仁の乱!もうどうにも止まらない11年戦争」
NHK-BSプレミアム  2017/07/27 (木)   20:00 - 22:00
磯田道史,渡邊佐和子,井上章一,呉座勇一,小谷賢,中野信子,橋本麻里
9: 日本@名無史さん 2017/10/01(日) 13:35:12.89 ID:.net
>>8
11年続いた応仁の乱を収拾したのは、日野富子だったとその番組で呉座氏が述べていた。
幕府組織上は無役の日野富子が、何故終戦を実現できたのか?
10: 日本@名無史さん 2017/10/08(日) 19:57:45.57 ID:.net
日野富子日野富子が稀代の悪女で、足利義政が無能無気力無責任だったから大乱が起こったんだね。
管理人より:「日野富子」は8代将軍・義政の正室。嫡男が産まれなず、義政が弟の義尋(後の義視)に将軍職を譲って出家した「後に」富子との間に嫡男の義尚(後の義煕)が誕生。息子を将軍職につけたい富子が山名宗全へ接近し…という流れ。義視をバックアップする細川勝元との全面対決が避けられない流れに。
11: 日本@名無史さん 2017/10/08(日) 20:01:41.03 ID:.net
富子は次期将軍が義視に決まってたにも関わらず、我が子を将軍にしたいばかりにごり押しして大乱を引き起こした。
しかも両軍に軍資金を貸して儲けるという銭ゲバ。
12: 日本@名無史さん 2017/10/12(木) 03:15:00.53 ID:.net
畠山義就>>11
>富子は…大乱を引き起こした……
違う。応仁の乱を起こしたのは、1467年初頭に武力行使した畠山義就。
13: 日本@名無史さん 2017/10/12(木) 21:42:47.60 ID:.net
>>12
富子が義視を押しのけて義尚を将軍にするために山名宗全の助力を求めたんだよ。
山名はライバルの細川に対抗するために富子と手を結んだ。
20: 日本@名無史さん 2017/10/16(月) 16:24:53.07 ID:.net
>>13
応仁の乱の発端は畠山が家督相続争いをしたことだよ
片方は山名と一緒に兵を出し、もう片方は細川のところへ逃げ込んだ

富子が義尚を将軍にするために山名に助力を求めた証拠はない
だいたい途中で細川と山名は将軍に推す人が入れ替わっている (自分が有利になればどっちが将軍でも構わない)
22: 日本@名無史さん 2017/10/16(月) 20:46:31.99 ID:.net
>>20
富子が宗全に助力を求めたことは『応仁記』に書いてあるので間違いない。
25: 日本@名無史さん 2017/10/17(火) 14:30:00.19 ID:.net
>>22
「応仁記」に載せられている日野富子が山名宗全に宛てて、足利義尚の後ろ盾を依頼した書状は、同時代の一次史料のどれにも裏付けがなく実物も残っていない「応仁記」の創作だよ
管理人より:この後、「応仁記」の信憑性について長々と罵り合いがあり、富子は悪女だよ派と、そんな証拠はどこにもないよ派で、現代の応仁の乱が繰り広げられる。長いから大幅にカット。
14: 日本@名無史さん 2017/10/12(木) 21:43:58.81 ID:.net
富子は稀代の悪女でゼニゲバ。
30: 日本@名無史さん 2017/10/17(火) 22:43:29.42 ID:.net
15: 日本@名無史さん 2017/10/13(金) 07:25:49.25 ID:.net
富子のゴリ押しと義政の無気力無責任が大乱を引き起こし、長引かせた。
16: 日本@名無史さん 2017/10/13(金) 10:14:22.27 ID:.net
ただ義視が九代将軍になっても、次の十代将軍を義視の実子の義材にするか、義尚にするかでまた乱が起きそうだなw

つまり足利家の直系としてみるなら義尚になるわけだ
御台所が産んでいるので庶子でもない
17: 日本@名無史さん 2017/10/15(日) 07:55:38.14 ID:.net
>>16
義政が生きてる間に義視→義尚へ継承すればよかったんだ。
義政は若かったからそのつもりだったんだろうし、応仁の乱が起きなかったらすぐに隠居してたに違いない。
21: 日本@名無史さん 2017/10/16(月) 16:28:19.72 ID:.net
>>17
武力衝突なしに義視が義尚に平和に将軍を譲らないだろう
義尚って9歳で将軍になってるんだよね
つまり義政自身が義尚を将軍に決めていたということだろう

ちなみに義尚は両親の義政・富子より先に25歳で死んでいる
18: 日本@名無史さん 2017/10/15(日) 08:30:58.13 ID:.net
応仁の乱(おうにんのらん)とは、足利義政、日野富子、細川勝元、山名宗全、畠山兄弟、斯波兄弟ら、当時の権力者達が一致団結して展開した焦土作戦。
その目的は、偉い地位にある連中が無能揃いになってしまったため、下賤の身分であるゆえに台頭できず、燻っている逸材が頭角を現しやすく土壌を作ることにあった。いわば、一種の地ならしであり、日本の戦国時代の幕開けとなった大事件である。

この事件がなければ、下剋上の風潮が日本に急激に浸透することもなく、日本の発展が遅れて18~9世紀頃には列強の植民地になっていたかもしれない事を顧慮すると、画期的な出来事であり、偉業と言えるだろう。
応仁の乱(アンサイクロペディア)
19: 日本@名無史さん 2017/10/16(月) 15:08:53.75 ID:.net
応仁の乱の黒幕はフリーメーソン
31: 日本@名無史さん 2017/10/17(火) 23:45:19.59 ID:.net
細川勝元1467年、斯波義廉が管領に就任した時、細川勝元は花の御所を占拠して、足利義政から畠山義就追討令を出させようとするが、富子が事前に察知して山名宗全に情報を漏らしたため失敗したことがあった

つまり富子と山名のつながりが垣間見えるが、義尚の後見役かどうかは断定が難しいな
33: 日本@名無史さん 2017/10/20(金) 09:21:42.06 ID:.net
応仁の乱を見ると、今の中東みたいな感覚なんだよな。
今の中東でも、本気でイスラムの教えがどうのこうので戦争をしている奴なんか、ほとんどいないのだろうなww
46: 日本@名無史さん 2017/10/25(水) 04:06:06.15 ID:.net
小池百合子と同じ
コロコロ変わりすぎ
47: 日本@名無史さん 2017/10/27(金) 15:55:17.68 ID:.net
日野富子は自分の子将軍にしたいあまりに大乱を引き起こして起きながら、両軍に金を貸して儲けてたんだよ。
サイコパスだね。
48: 日本@名無史さん 2017/10/28(土) 21:21:26.46 ID:.net
だから、違うだろ
足利義尚が将軍になった後も、大名たちが勝手に戦を続行してたじゃん
50: 日本@名無史さん 2017/10/29(日) 11:10:22.19 ID:.net
「富子は悪女にあらず」と言うのは歴史修正主義だ。許せない。
51: 日本@名無史さん 2017/10/29(日) 12:39:59.58 ID:.net
>>50
日野富子に応仁の乱の全責任があるとしているのは「応仁記」くらいだろ

だいたい足利義尚は子供の頃に将軍になってるし、夫の義政は別荘造って逃亡するしで、富子以外政治をとれる人がいなかったのあから
52: 日本@名無史さん 2017/10/29(日) 15:04:16.83 ID:.net
>>51
東軍に担がれながら西軍に金を貸して大乱を長引かせたゼニゲバ。
54: 日本@名無史さん 2017/10/29(日) 18:01:08.76 ID:.net
>>52
幕府財政が傾いていたのだから仕方がない
それで日野富子が豪遊していたならだが湯水のごとく金を使って別荘建設してたのは夫の義政だし
53: 日本@名無史さん 2017/10/29(日) 15:41:52.86 ID:.net
まあ東軍が勝てば細川に足利将軍家の天下を奪われるかもしれない
西軍が勝てば山名に足利将軍家の天下を奪われるかもしれない

ということで東西両軍が「痛み分け」に終わることが、足利将軍家にとって最善

ただ長引く戦乱で足利将軍の権威が地に落ちて、戦国時代へ突入したことは想定外だったようだが
55: 日本@名無史さん 2017/10/29(日) 18:33:20.99 ID:.net
室町将軍は守護大名同志を争わせて、その調停で飯を食っていたから、富子みたいに双方に金を貸すとの発想になるのではないかな?
57: 日本@名無史さん 2017/11/03(金) 20:18:48.89 ID:.net
足利尊氏足利尊氏が御家人たちを味方に引き入れるために領地を大判振る舞いしすぎた
そのために室町幕府はどの幕府よりも天領が少なく、将軍御所も一番小さく、家臣であるはずの守護大名のほうが豊かだった

日野富子の時代に急にそうなったわけではなくて、室町幕府は創立当初から火の車だった
ちなみに義政の父・義教は天領を増やそうと守護大名を粛清して領地を奪う政策をとったために、粛清を怖れた守護大名に殺された
58: 日本@名無史さん 2017/11/03(金) 20:32:11.32 ID:.net
>>57
なるほど 尊氏は源氏の家柄の力を過信しすぎたと思う

尊氏の青年時代は北条得宗家の専制政治だ
得宗家が天下の多くの土地を私物化して自分の懐を温め、幕政を掌握している姿をみて、尊氏は嫌悪感を抱いたのだろう
そして建武の新政、 後醍醐天皇は自分とその周囲が旧鎌倉幕府領の多くの土地を私物化して懐を温め、親政する姿を見て尊氏は嫌悪感を抱いたのだろう
そこで尊氏(と直義)はこう思ったわけだ

足利が将軍になって天下の政道を掌握したら、自分の懐を温めること第一の政治はしない 公平無私な政治を行うのだ
源頼朝公は自分の懐を温めようとしなかった。そして天下を治めた
私も同じ源氏の棟梁として同様にすれば、きっと諸国の武士はついてくるはずだ
59: 日本@名無史さん 2017/11/03(金) 20:35:56.10 ID:.net
>>57
>>58
頼朝も尊氏も源氏の名門だ
だから極端な話、頼朝や尊氏の私兵が100人程度しかいなくても、何千何万も私兵を擁する大名や豪族が自主的に頭を下げてくるわけだ
頼朝と上総介広常が好例
66: 日本@名無史さん 2017/11/09(木) 10:09:44.42 ID:.net
>>58
>>59
尊氏が名門で黙っていても大名たちが頭を下げて来るなら、領地を大判振る舞いせずとも家来たちがついてくる

ましてや尊氏は血筋だけなら到底かなわない南朝・後醍醐天皇を相手にしていた
血筋だけでは集まらなかったから実利(土地をあげるから味方に付いてくれ)という必要があったんだよ
67: 日本@名無史さん 2017/11/09(木) 10:42:19.90 ID:.net
>>58
尊氏は単独挙兵したわけではなく、後醍醐天皇による鎌倉幕府征討という錦の御旗に乗っかり、他の諸武士たちと合同でやったのであり(単独で鎌倉幕府を滅ぼしたわけではない)最初から幕府構想があったわけではないと思う

実際、尊氏が北朝の天皇を立てて将軍になったら、諸国の武士たちが皆「源氏の棟梁」である尊氏のもとへひれ伏して、家来にしてほしいとはせ参じたわけでもなく、それでも南朝につく者もいて、尊氏はいちいち土地をちらつかせて南朝勢力と戦う必要があった
61: 日本@名無史さん 2017/11/04(土) 14:58:51.91 ID:.net
頼朝の子孫が絶えた後、河内源氏の嫡流は新田氏
62: 日本@名無史さん 2017/11/04(土) 15:21:13.63 ID:.net
とかいう風説を打破するために、将軍維康王を「源惟康」と名乗らせることで、源氏の棟梁は足利でも新田でも佐竹でも武田でも小笠原でもないんだとお茶を濁そうとしたが、誰も源惟康を源氏の棟梁の将軍とみなさず、結局失敗

惟康は親王位に任ぜられて皇族に籍を戻されたうえで、京都へ強制送還
74: 日本@名無史さん 2017/12/30(土) 19:37:47.67 ID:.net
>>62
鎌倉・室町時代に武士を統率すべき「源氏の棟梁」という概念が、そもそもあったのかな?
村上源氏が担った「源氏の長者」概念は、公家階層にはあったろうが。
わずか3歳の維康王を征夷大将軍に就けた鎌倉幕府は、意のままに統制できるお飾りが欲しかっただけだろ?
56: 日本@名無史さん 2017/11/03(金) 19:17:03.13 ID:.net
なれや知る 都は野辺の 夕雲雀 昇るを見ても 落つる涙は
97: 日本@名無史さん 2018/11/04(日) 22:04:48.73 ID:.net
>>56
応仁の乱後の都は衰微して規模縮小
上京と下京を室町(烏丸?)通り一本のみで繋いだ瓢箪形の町になってたらしいね

最後のやつは、ダラダラと長引く応仁の乱で荒廃した京都を見て、飯尾彦六左衛門が詠んだとされる歌で「応仁記」に出てきます。現代語訳こちらから。
お前は知っているだろうか。都はこの大乱で無残にもすっかり焼け野原となってしまった。そんな荒れ果てた都の夕空にお前(ひばり)が舞い上がる姿を見ているだけでも、落ちてしまうこの涙のことを。
いつの世も、戦で荒れ果てた様を見るとき、ひとは無心ではいられないでしょう。

というわけで、「応仁の乱」にスポットを当てるスレ。
なにしろおおごとになってしまったこの天下分け目の戦ですが、途中で東西両軍のボスである細川勝元と山名宗全がほぼ同時期に死亡。
もういい加減グダグダなところが、さらにグダグダになり、幕府の威信というものは大幅に低下してしまいます。

スレでは日野富子が原因なのか否か、という点で揉めてますが、史実はどうあれ、それは些細な問題だと思う。
歴史上、そういう立場にないはずの君主のヨメが政治に口出しした例は多いですが、たいていそれは国がワヤクチャになると相場が決まってます。
しかし、だからといって、女性が政治に口出しすることまかりならん、みたいなのは短絡です。

歴史上、数は少なくとも女性の君主もいますが、たいていは傑物かつダンナや愛人の専横を許した例は極小ではないでしょうか。
強いとなれば女性は、そんじょそこらの男性など目ではないくらいに強い、とこれも相場が決まってます。

んだからこれは、日野富子は過程でしかなく、原因は明らかに君主である義政の意志薄弱にある、と言える。怠け者のダンナ+権力欲のある気の強いヨメ、の組み合わせは危険ですね。

ヨメの富子が山名に接近して義尚(義視)のバックアップをさせたのだ!いやそれは違うぞ!…という話も些細なことだと思う。
山名と細川はどのみち揉めてたわけだから、それはきっかけに過ぎず、大乱になったかどうかはさておき、将軍後継問題があろうとなかろうと、いずれは争ったでしょう。

こうやって考えると、封建社会における中央と諸侯の力関係なんて、微妙なバランスの上に成り立ってるのだ、ということですねぇ。
一歩踏み違えれば平和がついえ、諸侯が利権を巡って争い戦乱になってしまう。

徳川家康とそれに続く江戸幕府なんて、諸侯の力を少しづつ少しづつ削ぎ落とすことに専念し、だからといって無理やり中央集権もせず、地味に地方へお金を落とさせる工夫までしてる。
基礎がしっかりしてれば、多少ボンクラの後継者がチラホラいても、まぁ体制はわりと長期に渡ってなんとかなる、ということですね。
過去の歴史に先達の失敗を学び、ドライに国家100年の計を築きあげ、それを実行するだけの力も持ち、なかなか偉大な指導者ではないかと管理人などは思います。




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    • ※1 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2020.6.11 21:33
    京都市民にとって先の戦争だろ?
    • ※2 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2020.6.11 22:32
    日野富子ばっかやり玉にあがるけど
    日野家自体がもう銭ゲバで権力争い大好き勢なんじゃなかろうか
    • ※3 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2020.6.12 10:32
    足利義教を暗殺した赤松某が一番の原因だと思う
    本能寺よりよっぽど日本史に影響与えた暗殺ではないだろうか
    • ※4 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2020.6.12 13:10
    室町時代はマッチの時代でもあった。
    当時、日本人が使っていたマッチは毒性が少なく安全な赤燐マッチである。
    日本に赤燐マッチが普及したのは、時の将軍足利義満がこれを奨励したためとも言われている。
    その後、幕府ではマッチの使用をめぐって政権争いが勃発した。
    足利義政の実子義尚に対する、養子義視の反乱である。
    義視「マッチは簡単に火がつく黄燐マッチのほうがいいに決まってる!この黄燐マッチで義尚に一泡吹かせて、俺が足利家の将軍になるんだぜい!」
    同じように、管領の畠山氏、斯波氏でも赤燐マッチに対する不平不満から家督争いに発展した。
    義兼「赤燐マッチなんぞ糞食らえ!黄燐マッチじゃ黄燐マッチじゃ。ええぃ火を放てぇ!」
    マッチに火がつき、京都のまちは火の海にまっちまった!
    これが室まっち時代の、黄燐の乱である。
    • ※5 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2020.6.12 14:06
    応仁の乱はその前の南北朝の争いとセットで、京の権威や経済的な重要性を消し飛ばした戦いだな
    でも日本全体で見るとこの後中央が弱ったぶん地方が発展していくから、新陳代謝の為の致し方ない犠牲だったのかも
    • ※6 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2020.6.12 18:26
    律令体制がダメになって形骸化してできた荘園制度が、下克上と一円支配でなし崩しに崩れていく時代の幕開け。
    • ※7 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2020.6.12 18:28
    室町幕府に力が無いというけど、守護大名もホントのところ力があるとは言えないんで、国の守護職任されてるだけで本当の意味での領地とは言い難いから。
    • ※8 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2020.6.14 22:49
    応仁の乱の各インシデント毎に出典を期してほしいよね。

    何を信じて良いのかさっぱりわからない。
    • ※9 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2020.6.15 3:12
    貿易で儲けた田舎者が、俺の方がスゲーぞーと、京都にやって来た暴れたのが、始まりかな。でも、京都を治めるほどの実力は、無いのだが、騒ぐぐらいはできる実力。街道と、瀬戸内海ルートが整備されて、田舎者が怒涛の勢いで、京都に流れ込んできた。その為に、荒れに荒れまくった。結局、誰が一番かの競争に成って、織田が、取りそうになったけど、最後は、徳川が取るまで混乱が続く。
    • ※10 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2020.6.18 5:58
    気候変動もあるのでは気温が低下して収穫が減ってくると争いごとが増える
      • ※12 : ドクター・ノオ・ネーム
      • 2020.6.20 15:47
      >※10

      究極的にはそれに帰結するんだよね。近代に入って農業革命が起きる前は、気候変動が今以上に社会構造に打撃を与えた。

      当時は小氷期時代。干魃と水害が交互に起こるし、冬が妙に長くて作物が育てられないわで、本当に酷い時代だった。食い扶持を求めて殺し合いが起きるのは、当然なんだよな。
    • ※11 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2020.6.19 9:35
    封建もできておらず、律令制度も機能せず、中央政府に統治能力もないから、中央が割れたのを口実にみんなが他人の領地狙いはじめただけ。
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