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江戸時代の庶民の生活について教えて @ [日本史板]


江戸時代の庶民の生活について教えて @ [日本史板]
1: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/07(火) 15:21:05
真実を今・・・
7: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/08(水) 03:06:29
町人にとって一番よかったのはいつ頃?
13: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/17(金) 09:00:30
>>7
個人的には文政期じゃないかと
町人ではなく庶民といった方がスレの趣旨に合うと思う


といっても、このまま落ちそうなスレだが・・・
5: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/07(火) 17:16:58
身障者の将軍を2人も出しながら徳川政権は、身障者保護の政策を打出していません。

例外としては盲人保護政策があり、これは手厚くて、かなり徹底したものでした。
検校制度の公認と奨励がそれです。

検校制度はとても一口に言えないぐらい複雑なものですが、大まかにいうとすれば盲人たちを検校・勾当(こうとう)・座頭(ざとう)・市(いち)の4段階に分け、1番上の検校ともなると社会的に大名の位の待遇を受けたと言います。

外出は立派な駕龍(かご)に乗り、大名と同じ人数のお供が付きました。
位が1段階上るごとに相当な金額を納めなければならないのですが、そのかわり適当に配当金もあって、相互扶助のシステムになっていました。
杉山和一検校坐像(岸田吟香)
管理人より:「検校」という制度はかなり前からあったらしく、平安初期の「仁明天皇」の子供・人康親王が失明してしまい若くして隠居、彼の元につけられた盲人の侍従を「検校」と「勾当」と呼んだことが起源だそうです。
11: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/11(土) 11:56:44
今の町人は税金取られすぎ
12: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/17(金) 08:20:42
んー。
「町人」を広い意味で遣っているな。
狭い意味では家持町人・地主町人なんだが。税金等を払っているのも上記町人だけ。

混乱を避けるために用語の取り決めをしたほうがいいかもしれん。
14: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/17(金) 09:51:31
いわゆる「町人」=「庶民」の月収ってどれくらいですか?
5年から10年程度の経験値を持つ「建具屋」とか、鳶職人や大工が妻子を養えたのでしょうか?

時代劇などでは全身にタトゥーを施した鳶職人(町火消し)の「若い衆」が出てきますが、全身にタトゥー・・・しかも「和彫り」ともなると相当の金額がかかったと思われます。多分、現在の価格で数百万円。
鳶職人の収入ってそんなに良かったんですか?
15: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/17(金) 10:43:14
>>14
その辺の資料の有名どころはたぶん文政年間漫録だな

月給って考え方は当時あまりないと思うが、中級大工の収入は一日5匁4分
月によって仕事日数は違うみたいだが、年間で294日働いて1貫87匁6分
相場次第だが、大体年収が25両弱かな
月収なら平均2両そこそこってことになるだろうか


結構多く見えるが、まぁ文政期は結構インフレしてるしね
当時の米の値段は一石(150kg)で1両2分くらいかな
ちなみに、文政期の裏長屋の家賃は500文程度と聞いたことがある
仕事があれば、それなりに家族を養えるんじゃないか?


彫り物師の相場がどんなもんかは全く知らんが、そんなに高いだろうか
刺青自体当時の高所得者がやるもんじゃない気がするがねぇ
親分しか出来ないっていうモノでもないだろうし
18: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/18(土) 01:12:36
>>14さん
ガエン者の彫代は、町内や縁のある有力者の間に奉加帳を廻して捻出します
大体道具持ちとして、一人前として認められた位でしょうかね
鳶や消防の他、町内の雑事も引き受けてましたから、衣食住とかその他の心配はなかったんですよ


彫物の費用ですが、職人の1日分の手間賃と同じと云うのが相場です
名刺一枚分位の面積を一坪といって、1日に二つ分位つづ彫りすすんだようですね
人によりますが大体二時間位です
20: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/18(土) 02:47:08
肉体労働者はただでも宵越えの金は持たないって言ったしな
管理人より:ここで江戸時代の通貨の単位について「江戸時代の三貨制度」より要約。
時代劇なんかでよく見る(黄金の)小判1枚が「1両」これが金の基本単位。これの1/4を「分」、さらに1/4を「朱」と呼んだそうです。
銀については重さで測っており、重さの単位である「貫」「匁」「分」が使われていました。
銭はいわゆる「寛永通宝」という穴あきの鋳造貨幣があり、単位は「文」。これを1000枚まとめて「1貫文」と呼んだそうですが、イコール銀1貫ではなく、時代時代で交換レートがあった模様。1657年当時の「1貫文」のレートは「銀18匁」だそうです。
どうでも良いですが、江戸っ子の「宵越しの金は持たねェ」「出した金は引っ込めねェ」みたいな独特の生活観念の薄さというか、お金に対する潔さは、落語の「文七元結」なんかが有名でしょうか。元は中国のお話なんだそうですが。 文七元結 古今亭志ん朝
娘が女郎になったって死ぬわけじゃあねェ。だがお前ェは死ぬってんだから…、だから50両やるってェんだ。
博打狂いの左官の長兵衛身が、身投げする男に絶対手放しちゃいけない50両をアッサリくれてしまう人情噺。不器用な江戸っ子が繰り広げる優しい世界。
16: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/17(金) 14:50:24
だいたいの家は一部屋に大家族が寝起きしていたようだけど、若夫婦の性生活はどうしていたんだろうか?
夜中にこっそり?
それとも、山奥に逝ってやってた?
17: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/17(金) 21:12:13
別にどこででもやれるだろw
いちいち布団敷いてやらなきゃならないわけでもないし
19: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/18(土) 02:42:29
>>16
長屋で夜中に隣の女房の声が五月蝿いって話も残ってるし、たいして隠れてやるって感覚も無いんじゃなかろうか
昔の炭鉱町とかだと、昼に帰ってきた旦那がドア開けたままやってたとかいう話はあるし
結構近代まで日本は下層レベルではそんな感覚だと思うよ
24: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/19(日) 02:07:15
思いつきで書き込むが。ある人物を想定する。
江戸市中、貧乏長屋に住んでいる独り者の若い男。仕事は居職ではなく出職とする。

この者の日常的な食事はどうだったんだろうな。
化政期になると外食産業は大発展するが、それまでは食事はどうだったんだろう。
お茶一杯いれるにも火からおこさないといけない。飯を炊くのも時間がかかる。
すごくめんどうだと思う。

もしおれだったら、飲むのは水、飯は近所のおかみさんに頼んでいくばくか払ってわけてもらうかもしれない。

どうだったんだろうな。
63: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/11(木) 21:03:39
>>24
火って起こすの面倒だから、一旦つけると種火を長時間保持するようにしてた
火事が多発する要因のひとつだった。
23: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/18(土) 03:54:54
ちなみに江戸には引き手茶屋?とかそんな名前のラブホもあるぜ
26: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/19(日) 11:38:18
>>23
出会い茶屋のことだろう。
今のラブホのようなものだったらしいが、それを描いた浮世絵まで残っているからな。
28: squid-e-5.ipse.media.kyoto-u.ac.jp ◆iYpWoaA4h2 投稿日:2006/12/25(月) 15:34:09
庶民というより独身者が多かったことが要因。
男女比率が偏っているとか住環境が最低で育児放棄も多かった。
実際に捨て子も多くて綱吉などは取り締まるように指示していた。
29: 日本@名無史さん 投稿日:2006/12/25(月) 18:21:04
>>28
江戸の町人の話なのか普通の村の話なのかくわしくお聞きしたいです
31: ◆iYpWoaA4h2 投稿日:2006/12/25(月) 20:25:06
江戸は単身赴任者がとにかく多かったのです。
各藩の屋敷も国元から家臣だけでなく陪臣もいっぱい来ています。
機密保持とかもあるんだろうけど必ずしも江戸出身者を雇用したわけではなかったので、武士人数の数倍そんな感じの人たちがいます。


また労働者移入も建築労働者の不足から近隣からの流入しますが(技術者はもっと不足していたので熟練工とかは、かなり売り手市場だったとか)基本的に男性労働者です。
女性の社会進出(就職先がない)というか移動(流入)は男性ほど大きくなかったのでかなり男女比率が偏ってきます。

商家でも奉公人も男性社会です。
商業規模が大きくなって従業員数も増えるのですが、家族を持てるような境遇じゃなかったり長屋住まいだったりでちっとも改善しません。
早婚化と晩婚化の二極化がかなりひどかったそうですよ。早めに結婚しておかないと競争率が高くなると言う面も。
現在のお見合いは大正期に写真が庶民にも普及した時代に様式が固まったようですが、本来は仲人がかなり積極的に働きかけて、どうこうするものでした。
茶店や芝居小屋を舞台に江戸・大坂では庶民の間にお見合いが流行しています(それ以前は上流社会のみ)。
仲人には両家から手数料(実際は名目が違いますが)入るのでビジネスとして大きかったのが理由です。
これには芝居興行主とかも係わっているのですが、門前の茶店や茶房も同じで良縁とかを売りにする寺院もかなりありました。
35: 日本@名無史さん 投稿日:2006/12/25(月) 22:38:09
京からの呉服屋の江戸出店なんかも、京からの単身赴任者が多かったらしい。
今も昔もかわんねえなあ
36: 日本@名無史さん 投稿日:2006/12/26(火) 00:19:30
男女の比率で思い出したが、ずっと前に読んだなにかに書いてあった。(出典忘却。失礼)

江戸では冬のほうが女が少ない、という調査結果があったそうだ。
その記述では、理由として、江戸の火事が挙げられていた。
江戸では大火がたびたび起こるが、時期的に冬が多く、そのため季節によって江戸の男女比が違ったのではないか、という説が述べられてあった。
近郊から江戸へ働きに出ている女は、冬場は実家に戻ることがあったとか。


どうしてもいざというときは、女のほうが危険を脱するのが男より難しいからだろう。
おれは詳しくないのでこれについては判断できないが、確かに火事にあって焼け死ぬことを考えれば、そうかもなとも思う。
出典忘却ゆえ、読み流してくれ。
37: 日本@名無史さん 投稿日:2006/12/26(火) 00:21:56
36補足。
「女が少ない」というのは「それ以外の季節にくらべて女の比率がさらに低くなった」の意。
38: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/03(水) 00:19:14
今の様な握りすしは、江戸時代文化文政のころできたもので、それまでは押しずしでした。
文化の頃で深川の松のすしができて、名を轟かせていますが、押しずしでした。


文政年間のはじめに、江戸本所元町の与兵衛と言うひとが、それまでの早すし、(酢を混ぜた飯の上に魚をのせたものを、小型の桶にいれて一晩ほど圧してつくったものでした。

清水と静岡の間に国吉田と言うところがありますが、そこの桶ずしは梅酢を使って、いましたので長持ちし、有名でしたが昭和の初めになくなってしまいました。)
その早すしを改良して、山葵をはさみ(それまでは梅酢につけた生姜です)、海老やこはだを主とする握りすしをはじめました。
39: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/03(水) 01:11:13
旨そうだなあ
40: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/03(水) 12:09:39
鮒とかコハダとか今と嗜好が違うんだな
47: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/09(火) 01:17:04
>>40
コハダの握り食ったことないの?
旨いよ
64: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/11(木) 21:07:30
>>38
握り寿司って文政時代ぐらいのものだから、日本の食文化史のなかでのカレーライスと50年ぐらいしか差がないんだよな。

握り寿司とカレーって伝統の度合いって同じようなレベルといってもいい。
管理人より:そーなんだぁ…。「握り寿司」によると。
「妖術と いう身で握る 鮓の飯」『柳多留』(1827年作句、1829年(文政12年)刊)が、握り寿司の初出文献である。握り寿司を創案したのは「與兵衛鮓」華屋與兵衛とも、「松の鮨(通称、本来の屋号はいさご鮨)」堺屋松五郎ともいわれる。

一方、「カレーライス」の方は、
日本に初めてカレーライスの調理法を紹介したのは、1872年(明治5年)出版の『西洋料理指南』(敬学堂主人[9])である。
43: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/05(金) 09:56:59
それって近海でしか漁をしなかったから?
でも鯨は赤肉だよね
44: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/05(金) 22:52:32
       /\_,,  -―――--  _
       | ∧       ___      `ヽ
   / ̄ ̄`  ヽ   ノ´__`ヽ      \
   \   _ノヽ〕斗- ―――‐\       \
    \/   /          \      )
      |  /    |   l l  ___/ハ |ー―r‐‐'
      | /_ノl   斗-ハl l/リ/ハ`刈  l |
      〃 /  ハ i|八 ィfテト  イr'ハトj イ /
      /  /ハ从ハハ い}    ゞ-'〃/l/
        / /l  トi i}込 " '。 "//斗  は、はわわ、ご主人様、鯨は魚じゃないですよ
     /  |  !.N f´ _`≧ェイ「ニニ人___
           〆    , /   /  て)(_) `ヽ   \
45: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/06(土) 18:46:08
        ( ^ω^)
        ( つ¶つ¶
      (⌒⌒⌒⌒⌒⌒)
        (,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,ノ
         .;ヽ, <,、  ドガッ!
          、ノ (、
         ,;,) ('、'
      ;.、人,ノ  <,人,ノ',.;バリバリバリ
      ;.,,)       (,;
     :、) \(;^ω^)/ うわ、そうだった
48: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/09(火) 09:57:25
石高について調べてみたけど今の貨幣価値でいくらかなど書いていたが、どうも納得がいかない。
というのは江戸時代貨幣が存在していたとしても、今ほど流通してたわけではなく変わりに米を貨幣代わりに使っていた訳で、物々交換など。今のように全て貨幣で決済してた訳ではない。

よって相対価値としてみるのが一番かと思う。
例えば、大名家は今で言う企業に一番近い存在なので、今の国家予算が80兆近くで、トヨタが売上高20兆近く。
要するに4分の一で当時の総石高が2000万石、幕府が400万石だったとして5分の一、今のお金にすると16兆くらいになる。
なので100万石の前田家は今で云う、4兆円くらいの企業の長ということになり、一万石の大名で売上げ400億の企業の長と同じくらいの力があったんではないだろうか。


そう計算すると当時の凄さが伝わってくるし納得がいくのだが。
49: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/09(火) 11:12:14
1万石で大体1億くらい。これ以上が大名って言われるよ。

1石っで一万だな。わりと上級な300石級でも年収300万だから、それほど裕福なわけではない。
52: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/09(火) 13:04:45
>>49

おいおい、それが間違ってるということ。上級武士300石で年収300万って今の庶民の給料。一石で庶民で一年食べれる米の量。
といっても米は、食べるだけではなく他のものと交換できる今の貨幣価値と近いものがあって、必ずしも今の米の価値とは違う。
なので300石は今の9億から12億の価値はあるよ。


それに石高は今の企業の売上げと同じなので、そこから家来の食事、軍備とか諸経費が引かれるので長の手取りはもっと少なくなる。
54: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/09(火) 22:23:43
俸禄は藩が借り入れるということで半分は借金だったそうだが。会津とかは60%藩に取り上げられる。
55: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/09(火) 23:21:51
そんなことないよ
当時の武士階級は全体の7パーセントくらい。

しかも上級武士なんてほんの数パーセント。
大名家なんて庶民からすれば雲の上の存在だからそれぐらいの方が現実的。
それに大大名なんて参勤交代など出費が多くて大変だったし経費が思っている以上に掛かってる。
なのでもし1万石の大名が、現代でその当時の人数分の家来を抱えて維持しようと思えば400億くらいないとやっていけないと思う。
56: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/10(水) 02:04:33
一石は約140㎏。10㎏の米が4,000円として年収5万6千円。
1万石なら単純に1万倍で5億6千万。


もっと買いたたかれるような気もするが。そんなところだな。

一万石の常備兵数は、200名。+馬上14騎、鉄砲20挺、弓10張、槍50本、旗3本
なので雑兵10石、弓・槍を20石・旗・鉄砲・を30石、馬を40石と換算すると
2000+560 +600 +200 +1000 +90 と換算で4450石が常備兵数。
収入の約半分は俸禄だな。
57: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/10(水) 02:10:57
>>56
で、300石なら10億円ぐらいなの?
95: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/14(日) 15:55:01
>>56
1万石の大名ってのは、四公六民だと4千石が見入りだから、もっと厳しいよ。
97: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/14(日) 18:02:33
>>95
常備兵力を馬鹿正直に揃えればスデに赤字か・・・
実際は、俸禄を与えた家臣が用意する兵力分もあるんで4450石がコスト、そのものではないはずだが。どっちにしても苦しい財政だな。
58: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/10(水) 09:58:35
一万石の常備兵、200名の生活(現在の生活費)と武器弾薬(現在の車や家)を維持する為には、現在の貨幣価値で5億6千万では、到底無理な数字。
現在の価値ということを考えないと意味がない。
それに米は今の米の価値とは同じではない(貨幣価値がある)という発想でないと間違えるよ。

こういうことはマクロ経済で判断して細かなズレはミクロ経済で埋める作業をしないと正確な今の価値として算出できない。
65: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/11(木) 21:58:20
やっぱ歳とって一人前に働けなくなったら、野垂れ死にするしかなかった?
66: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/11(木) 22:19:27
歳をとる前に死ぬ。平均年齢四十才くらいの時代だから。
68: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/11(木) 22:38:10
>>66
平均寿命が低いのは、現代よりも乳幼児期に死ぬケースが多くて、その寄与が大だから。
無事成人したら老齢まで生きる人が大半ではないかな。
70: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/11(木) 23:41:12
江戸時代になると宗門改帳を頼りに町村単位の平均余命を知ることが出来る
これによると1600年頃の寿命はよくてもせいぜい30才程度であった。
ちなみに記入されていない乳幼児の死亡は入れていない。

ただ平和な時代では
寛文11(1671)年から享保10(1725)年のそれは男36.8才、女29.0才
享保11(1726)年から安永4(1775)年になると、男42.7才、女44.0才
ぐらいになっているので平時の寿命はそんなものなのだろう。


医療技術が進歩していない状況では、四十才ぐらいが限度だったようだ。
人生五十年というのは長生きした現在の八十ぐらいに相当すると考えていいだろう。

最大の疫病天然痘やこのほかにも腸チフス、マラリア、赤痢などの流行病があるので体力のない人間は生き残れない。
77: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/13(土) 18:53:08
江戸期の記録を見ると80とかはさすがに珍しいようで顕彰されたりしてる。
平均40と言っても現在の60くらいの感じなのだろう。


隠居とか40代の話が多いから今で言う定年だな。
元服が10代なので、当主が20代というのはそう不自然でもない。
117: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/24(土) 22:44:37
少し前の話題になるけど、江戸時代の人口動態。

鬼頭宏の「人口から見た日本の歴史」で、今、記憶している内容だけを紹介すると、確か、生まれた子供の3,4割が5歳までに死に、成人するまでにさらに1,2割が死んでしまうような社会。

子供が死ぬことが、ごくごく日常的に起こっている社会であり、生まれた子供の半分が、結婚前に死んでしまう。


ということは、合計特殊出生率が4.0で、初めて人口維持が可能となる。
(2005年のこの数値が1.26であることは周知の事実)

子供のできない夫婦も1,2割りは居ただろうから、
子供を産み育てられる家の主婦が6,7人は、生まないと、社会の人口が減少する。

我が家や親戚に、「子供が生まれた」といっては喜び、「子供が死んだ」といっては悲しむ、非常に喜怒哀楽に富んだ社会だったと推測してしまう。
118: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/24(土) 23:48:18
七五三は 昔の子供は死亡率が高かったから、3歳や五歳や7歳まで成長した事を祝う行事だったって親に言われたけど
123: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/07(水) 18:30:10
農民達はどんな食事をしていたんでしょうか。
124: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/07(水) 19:34:35
粟、稗、襖まじりの玄米かな
あと野菜と魚か。山間の村だとはちのこなんかも食べたのか
126: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 10:19:30
一口に農民といってもピンからキリまであるしねぇ・・・
129: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 12:45:35
米は換金作物だから百姓は食ってないよ。
百姓が食ってたのは粟とか稗とかの雑穀だけど、藩が金儲けのために換金作物である米の栽培を強制したおかげで、
東北を中心として餓死や娘の身売りが続発していた。
130: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 13:05:39
農民はお米食べてないね。雑穀だ
131: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 14:51:59
町人もお米食べてなかったのかな
136: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 18:29:45
農民が米食べられなかったとか言うけどさ。
(商品作物作ったり、米を倹約して金に換えたりしたのもあるけど)
収穫した米は輸出したわけではないから、全て国内消費したわけでしょ。
どんな金持ちだって一日に丼飯20杯も食えないのに、米はどこにいったのか不思議だ。

そんなに収穫量が少なかったのか。
141: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 19:47:32
>>136
江戸時代の米の生産性はもの凄く悪いよ。
現代の大生産地なんて、とてもじゃないが稲作なんてできる環境になかった。
広大な平野は湿地だし、耐寒品種なんてものもないから、寒冷な東北じゃほとんど作れない。

その証拠に、明治に入って人の移動が自由になったとたん、東北各県から一斉にかつて藩に押し込められていた食い詰め農民が流出したし、明治政府はちゃんと米が作れるよう排水のための事業を急ピッチで行った。
142: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 20:23:23
江戸時代において飢饉がおきた時、幕府はなにか対応したんでしょうか。
なんかほったらかしのイメージがありますが。
143: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 20:54:01
>>142
幕府管轄の天領で飢饉が起きたときは、お救い小屋とか出している。
他藩の飢饉はそれぞれの藩がやることだ。
144: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/08(木) 20:54:16
>>142
言われてみれば、天領でどれくらい飢饉があったのかの視点が事なかった。

江戸では、米価調整したらしいけど。
116: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/24(土) 11:47:32
銭湯の混浴禁止は、混浴が禁止じゃなく、風呂屋の二階での売春行為が禁止らしい。
99: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/14(日) 20:01:15
オ○ニーはどのようにしてたのかな?
100: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/14(日) 20:10:28
してなかったんじゃないかな
101: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/14(日) 20:12:34
してたろ。
男の同性愛者が多かったのは事実。性欲もそれなりに……
102: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/15(月) 14:07:30
手淫船ってのがあったくらいだしな
103: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/15(月) 14:16:24
あるあ・・・
ねーよwwwwwwww

アレ、でも「手淫船」ってなんか聞いたことあるぞ…!と思ったけど、よくよく考えてみたら「朱印船」のことでした。笑

というわけで、江戸時代の一般庶民の生活。なかなか良スレでしたね。
なんかあの落語とか聞いてると、案外一般庶民の生活はけっこう平和で感情豊かに見えてしまいますが、実際のところはどうだったんでしょうか。

三代目古今亭志ん朝 - 井戸の茶碗
「御指南番がいるところに別の御指南番。合わせて八南番」
「バカなこと言ってんじゃないよ!」
「井戸の茶碗」には、「屑屋」という商売人が出てきますが、これなどはちり紙交換の前身にあたるでしょうか。相当細かく商売の分業が進んでいるように見えます。なんだか活気のある江戸の生活が垣間見えるようで、楽しそうですねぇ。

江戸高名会亭尽 隅田川 柳屋(歌川広重)
トップ絵は歌川広重の浮世絵「江戸高名会亭尽」より「隅田川 柳屋」。
会亭というのは今でいうところのフルコース料理を出す高級店で、これを「会席」と言ったんだそうです。「会席料理」というのはここから来ているんでしょうか。
会席料理って1回だけ食べたことありますけど、あれは案外ボリュームあるんですよねー。
5.19追記:当記事を「提督の野望 海軍広報 Ver7.0」さんにてご紹介いただきました(こちらの記事
おわッ!?連続でどうもありがとうございます~( ´∀`)
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元スレ:http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1162880465/

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    • ※1 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2015.5.18 22:20
    もしや農村ではハーレム状態か?
    嫁不足の現代とは逆ですねw
    • ※2 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2015.5.18 22:34
    >>江戸っ子の「宵越しの金は持たねェ」
    たしか中島らものエッセイだったと思うのですが、これは当時の賃金が
    日払いで、次の日にも職人たちに来てもらうために大工の棟梁が広めた
    から、って書いてましたが本当でしょうかね。

    あと、江戸庶民の生活を知りたいのであれば、中公文庫から出ている
    三谷一馬の著作がお勧めです。
    • ※3 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2015.5.19 0:12
    明治維新や大戦後の左翼系学者によって相当江戸時代のことは歪められてるからなぁ
    今後もっと良質な再研究が進んで欲しい
    • ※4 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2015.5.19 2:02
    テレビで江戸時代の生活をしているのを見ていたら、握り寿司が人の握りこぶし程度の
    大きさで驚きました。食べでがありすぎです。

    これとは別ですが、水戸黄門の徳川光圀は農民から絞りとっていた、と言うのにも呆れました。
    テレビで悪代官を退治する黄門様の姿が刷り込まれていたのですが、現実は黄門様自体が
    悪代官でした。だいたい辻斬りをしたとか、いくら身分制度のある時代でも酷い。
      • ※6 : ドクター・ノオ・ネーム
      • 2015.5.20 16:56
      水戸光圀のところは、ちょっと歪ませすぎですね
      若い頃に、譜代中の譜代大名家の人間には似つかわしくない、
      奔放な生き方をしていたのは事実ですし、江戸に出て人を斬ったという話も、
      かなり信憑性は高いです
      無論、講談・ドラマでの水戸黄門様が真っ赤なウソなのは当然です
      彼は、関八州の各所にある関を越える立場にはありませんでしたから
      赤穂浪士の敵役である吉良が、地元では名領主として崇められてるのと同じで、
      伝承と史実は見方とか恣意でなんとでもなるようなもんです
    • ※5 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2015.5.19 19:05
    手淫船で思い出しましたが、江戸時代、小舟に乗って客を相手にする船饅頭なる安い娼婦がいました。耳嚢には律義な船饅頭が金を置き忘れた手代の危機を救い、目出度く身請けされてその手代と夫婦になる話があります。
  1. >もしや農村ではハーレム状態か?

    相対的にそうなる計算ですね。そりゃ夜這い文化もはかどろうというモノです…デュフフ
    -------------------------
    >次の日にも職人たちに来てもらうために

    あーなんかそれいかにもありそうだなー。
    職人さんは男前な性格してるひと多いですし。
    -------------------------
    >今後もっと良質な再研究が進んで欲しい

    けっこう細かいところって気になりますよね。いつなんどく江戸にタイムスリップしても大丈夫なようにしておきたいところ。
    -------------------------
    >現実は黄門様自体が悪代官
    >伝承と史実は見方とか恣意で

    まぁ歴史小説やドラマはフィクションですから。
    落語にはたしか「雁風呂」ってのがあって、光圀公が出てくるエピソードがあったはず…。けっこう庶民には慕われてたような雰囲気ではありました。
    -------------------------
    >船饅頭なる安い娼婦

    へぇー、いわゆる「ちょんの間」ってやつですかね。まさに手淫船。
    耳袋って有名だから1回読んでみないと…。
    • ※8 : ドクター・ノオ・ネーム
    • 2016.10.12 22:31
    食べてるものの違いから、皇族・将軍家と庶民では歯と顎の形が違うっていうのを国立科学博物館で見たことある。
    皇族達は柔らかいものばかり食べてるからか、顎が細くそれ故出っ歯だった。
    骨格だけ見ると、庶民の方が顔立ちが良さそうな印象だった。
    肉付きされたら分かんないけど。
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